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あれっ、宇多田ヒカルの原体験?


「宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌」(杉田俊介著、毎日新聞出版)より  


 以下は掲題書からの一部抜粋。


  第六章 幽霊的な友愛のほうへ  

   母の死と向き合う-『Fantome』
 

 2016年9月28日。8年半ぶりのアルバム『Fantome』が発売される。 「Fantome」とは、「幻」や「気配」を意味するフランス語だという。母国語である日本語でも英語でもなく、フランス語を使うことが妙にしっくりきたという。 

 <<今回のアルバムは亡くなった母に捧げたいと思っていたので、輪廻という視点から“気配”という言葉に向かいました。
 一時期は、何を目にしても母が見えてしまい、息子の笑顔を見ても悲しくなる時がありました。
 でもこのアルバムを作る過程で、ぐちゃぐちゃだった気持ちがだんだんと整理されていって。
「母の存在を気配として感じるのであれば、それでいいんだ。
 私という存在は母から始まったんだから」と。 >>(「私という存在は母から始まったんだから 宇多田ヒカル、待望のニューアルバム『Fantome』をリリース」、『トレンドニュース GYAO!』2016年9月2日配信)

 これは本人による解説としてわかりやすいし、家族問題としては第三者の私たちの感覚としても納得がしやすい。

 2012年に発表された「桜流し」は別として、アルバム収録曲の中ではまず「真夏の通り雨」を作り、次に「花束を君に」を作ったそうである。

 これらの曲を作るのは、とても苦労したという。特に歌詞の面で難航した。いくつかのキーワードがぽつりぽつりと浮かんでも、題材がデリケートなだけに、なかなか完成してくれなかった。母の死後には、もう二度と音楽を作れないかもしれない、そんな覚悟をしていた時期もあったという。

   現在の宇多田はすでにとまどわず、何も臆することなく、『Fantome』というアルバムには自らを癒すためのセラピー的な側面があった、そう語っている。それを真っ直ぐに公然と語りうるところまで、自分をもってきた。 

 母の生前は、いろいろなことを公にできず、「秘密」を抱え、自分を制限してきた面もあった。けれども、母の死とともに、内なる「センサーシップ(=検閲)」のようなものが解除された。それはもう恐れるものが何もない、という場所へと自分を開くことだった。母をめぐる「秘密」を公然とお天道様の下にさらすことだった。「全部裸になっちゃった、どうしよう」。

 そしていざ、そのことに気づいてみると、想像以上に、自分は「自由」だった。自由になってしまっていた。これほど、みんなに聞いてほしい、と素直に感じたアルバムは、これが初めてかもしれない、そうも言っている。 

 「桜流し」「真夏の通り雨」「花束を君に」以外の、今回のアルバム収録曲の歌詞のほとんどは、2016年の4月から7月までの約3ヶ月の間に一気に書き上げた。これまでで最短記録だった。 

 母の死は、自分に「自由」をもたらした。母を亡くしたこと、また再婚して男の子を産んで、自らが母親になったことで、急激に「大人」になった。大人にならざるをえなかった。宇多田は、そうも言っている。逆に言えば、どんなに成長し、成熟したとしても、彼女はそれ以前はまだまだ母の「娘」であり、母なるものの呪縛の中にあった。そういうことだろう。    


<感想>
 再始動の1曲目となった「真夏の通り雨」。

「汗ばんだ私をそっと抱き寄せて たくさんの初めてを深く刻んだ」

 自分が母になって子供を育てることで、自分が母にどんな初めてを教えられ、その積み重ねにより今日の宇多田ヒカルが生まれたとも言えよう。

 亡くなった母への想いが強く感じられるアルバム最良の曲だと思う。


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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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by tsuruichi1024 | 2017-04-06 08:00 | 宇多田ヒカル | Comments(0)