「日本人なら知っておきたい 皇室のしくみ」(著/五味洋治ほか、宝島社)


 以下は掲題書(第七章「時代をつくった天皇」)からの一部抜粋。


天智天皇 乙巳の変、大化の改新


  天皇による中央集権を推し進めた賢帝

 天智天皇は乙巳の変、大化の改新を推し進めた第三八代の天皇である。

 当時、天皇の外戚となり、さらに物部氏を滅ぼすことによって、最大の豪族として力を誇っていたのが、蘇我氏宗家である。その蘇我氏宗家の血を引きつつも、その力を抑えていたのが厩戸皇子(聖徳太子)であったが、彼がなくなると、誰も蘇我氏宗家を抑えるものがいなくなった。

 天智天皇は、この蘇我氏宗家を倒すことで天皇の権力基盤を強固にし、厩戸皇子がはかった天皇による中央集権を推し進めた。

 天智天皇が、まだ中大兄皇子であったとき、中臣鎌足とともに起こしたクーデターが「乙巳の変」だ。皇極四年(645)、三韓(新羅、百済、高句麗)からの貢物を携えた使者を迎える「三韓進調」の儀式の際に、クーデターは実行された。ここで蘇我入鹿を暗殺し、さらに、その親である蘇我蝦夷を自殺に追い込んで、蘇我氏を滅ぼしたのだ。

 その後、中大兄皇子は、実母の皇極天皇を退位させ、その弟で叔父の孝徳天皇を即位させた。そして自らが皇太子になる、ともに乙巳の変を実施した中臣鎌足は天皇の側近として内臣にもちいている。


  中央集権国家をめざす大化の改新

 このように人事を一新した中大兄皇子は、大化の改新を実行する。それまで、有力豪族の連合体で、その名手的存在であった天皇の権力を強化して、天皇による中央集権国家を目指したものだ。

 土地・人民を天皇に帰属するとした「公地公民制」、天皇の土地を人民に貸与する「班田収授法」の詔、そして国家財政の安定のために全国的な税制を目指された。この後の中大兄皇子は白雉五年(654)孝徳天皇が崩御すると、齊明天皇として皇極天皇を再即位させる。

 斉明七年(661)には唐・新羅軍と戦う百済支援のため、齊明天皇とともに大軍を派遣するが、その斎明天皇が急死。中大兄皇子は「称制」(即位せずに天皇に代わって政治を執ること)となり戦争を続けるが(「白村江の戦い」)で破れ、唐に備えて都を飛鳥から近江に遷すことになる。
 
 都を遷した翌天智七年(668)に中大兄皇子は天智天皇として即位。しかし、五年後に崩御している。皇太子時代が二十数年あったことを考えると、即位後の治世は短かった。』


<感想>
 大化の改新を通した天智天皇を改めて考えてみると、戦後の天皇の位置付けとは全く異なることが分かる。今後、天皇を頂点とする政治体制が復活する可能性は極めて小さいだろうが、国家的危機に陥った際にお頼みする機会はないとも限らない。天皇制が途絶えない枠組みは確り考えておかねばなるまい。

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by tsuruichi1024 | 2017-08-22 08:00 | 天皇論 | Comments(0)


「日本人なら知っておきたい 皇室のしくみ」 (著/五味洋治ほか、宝島社)


 以下は、掲題書(第七章「時代をつくった天皇」)からの一部抜粋。


  
後醍醐天皇 建武の新政
  足利尊氏の武士政権と対立して南朝を打ち立てる



 武家政権を倒すために、一生をかけた天皇が後醍醐天皇である。

 鎌倉時代半ば、持明院統と大覚寺統が皇位の継承をめぐって争っていた。その対立を解決するため、鎌倉幕府が、皇位は両党が交代で継承すると決めた。

 これに対し、後醍醐天皇は幕府による朝廷への介入と危機感を持つ。朝廷が引き起こした問題とはいえ、古代より天皇は朝廷が決めてきた。

 幕府の弱体化もあり、後醍醐天皇は幕府討伐をはかるようになる。しかし、討伐の計画は二度失敗する。「正中の変」と「元弘の乱」である。「正中の変」はなんとか幕府の追及を逃れたが、「元弘の乱」では、笠置山で挙兵するが、幕府軍に捕らえられ、隠岐島に流されてしまう。そして、その間に幕府側は光厳天皇を擁立。これが北朝の始まりである。


  ついに鎌倉幕府の打倒に成功する

 だが、それでめげる後醍醐天皇ではない。天皇が不在の間は、天皇の第一皇子である護良親王が討幕の工作を担った。吉野で幕府打倒の兵を挙げ、諸国に令旨を送った。

 これに呼応したのが楠木正成、赤松円心などの地方の武士たちである。そして、後醍醐天皇が隠岐島から脱出すると、幕府側だった足利尊氏が天皇側へ寝返った。

 尊氏は京都の幕府の出先機関である六波羅探題を改め、新田義貞が鎌倉を攻めて、ついに鎌倉幕府は崩壊する。ここに、天皇が自ら政治を担う「建武の新政」が始まる。

 しかし、時代は武力を背景に武士が権力を持つ時代になっていた。

 武家を抑えるために征夷大将軍になっていた護良親王と足利尊氏が対立。親王が尊氏に幽閉され殺されてしまう。そして、尊氏は朝廷打倒の兵を挙げたのだ。

 最初は尊氏側が守勢であった。朝廷側の楠木正成などの奮戦もあり、尊氏は一時九州に逃れるが、再起。登場して楠木正成を湊川の戦いで破ると、京都を制圧。後醍醐天皇にかわって光明天皇を擁立した。

 これに対し、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を樹立。ここに南北朝の時代が到来するが、これ以降、天皇の力は急速に弱まっていく。

 そして、時代は武士のものになり、明治維新まで天皇が政治の表舞台に立つことはほとんどなくなる。後醍醐天皇も南朝を樹立した三年後に崩御した。


<感想>
 いつの時代においても既得権益を侵す側と守る側との戦いはあり得る。その際、どちらに付くのが得だったかは、その後の歴史が明らかにしてくれる。

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by tsuruichi1024 | 2017-08-17 08:00 | 天皇論 | Comments(0)


「天皇論 平成29年」(小林よしのり著、小学館)より


 以下は、掲題書からの抜粋(その10)


  第13章 天皇の基礎知識2・皇居と国家元首


 東京に遷都する以前、千年以上も天皇がいた京都御所には堀も石垣もなく、外界と隔てているものは、数人でかかれば壊せそうな塀だけだった。

 しかも御所は定められた期間に庶民が自由に参詣できる、身近な信仰の場でもあった。
 こんな無防備でも千年地位を脅かされることがなかった王など、世界に他にはいない。


 歌を詠むことは日本人の教養であり、たしなみであった。


 現在のような歌会始が行われるようになったのは明治からで、最初は天皇のごく側近だけで行われていたが、次第に参加者を広げ、明治7(1874)年から一般国民も参加できるようになった。

 歌会始は皇室の不幸により天皇が喪に服した年以外は必ず行われた。
 大東亜戦争敗戦の翌年、世情すべてが混乱の中にあった昭和21(1964)年でも中止されなかった。

 歌会始はそれほど貴重な皇室と一般国民を結ぶ行事なのである。

  ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ
  松ぞ ををしき 人もかくあれ

 その年の昭和天皇御製である。
 深い雪の中でも、松が緑を失わないように、日本人もこの敗戦の試練に耐え、日本人の節操を曲げないで、雄々しく生き抜いてほしいという祈りの歌だ。


 この歌会始以外に「松の間」では信任状捧呈式が行われる。
 これは新任の外国の特命全権大使が天皇に信任状を渡す儀式で外務大臣が侍立する。
 そもそも国際慣習では、大使などの着任にあたり、派遣国の元首が発する信任状を受けるのは駐在国の「元首」ということになっている。

 各国は信任状を天皇に対して発し、大使などの着任の際に天皇に捧呈している!
 日本の元首は天皇であるというのは国際常識なのだ。


 さて、天皇の「明仁」という署名・・・
 そして、「天皇御璽」と刻まれた天皇の実印・・・
 まとめて「御名御璽」ともいうが、この二つがなければ日本の国家は動かないということを皆は知っているだろうか?

 憲法では天皇は「国事行為」を行うとされている。
 具体的には次の13項目が定められている。

1.国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する。
2.内閣の指名に基づいて最高裁判所長官を任命する。
3.憲法改正、法律、政令、条約を公布する。
4.国会を召集する。
5.衆議院を解散する。
6.国会議員の総選挙を公示する。
7.国務大臣その他の官吏の任免、全権委任状、大使、公使の信任状を認証する。
8.大赦、特赦、減刑などを認証する。
9.栄典を授与する。
10.批准書その他の外交文書を認証する。
11.外国の大使、公使を接受する。
12.儀式を行う。
13.国事行為を委任する。

 これらに関する書類は閣議決定後、天皇陛下のもとに届けられ、陛下はこれに署名なさる。
 そして侍従職が押印する。御璽は金製で重さが3.55kgもある。

 天皇陛下が署名・押印する書類は年間1000件を超える。
 しかも陛下はその書類をすべて丁寧に読んだうえで署名されるので、大変なハードワークである。


 戦前の昭和天皇も「立憲君主」であり、内閣が機能不全となったたった2回の例外、「二・二六事件」と「終戦時」以外は、自らの意思で政策を実行させたことはない。
 天皇は常に内閣の決定を承認する役割だったのである。


 我々は自分の国を、世界最古の王室を頂く立憲君主国であると誇るべきなのだ。
 実際に海外からはそう評価されているのだから。
 なにゆえに、天皇をはっきり「元首」だとも言えないような空気が日本の中でだけ作られ、天皇が何をしているのかも若者が知らないというおかしな状況になっているのだろうか?


<感想>

 世界最古の立憲君主国である天皇に関する教育が皆無なことが問題だと国民一人ひとりが認識するところから始める必要があろう。


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by tsuruichi1024 | 2017-04-26 08:00 | 天皇論 | Comments(0)


「天皇論 平成29年」(小林よしのり著、小学館)より


 以下は、掲題書からの抜粋(その9)


  第12章 天皇の基礎知識1・天皇には姓がない


 昭和天皇の本名は「裕仁」である。
 天皇の本名は「明仁」、皇太子の本名は「徳仁」である。

 「仁」の字は第56代清和天皇(在位858~876)の名前「惟仁」で初めて使われ、第70代冷泉天皇の「親仁」以来、わずかの例外を除き「仁」を使うのが通例になっている。

 明治以降、皇子(天皇の息子)には「仁」、皇女(天皇の娘)には「子」をつけることが正式に定められた。
 日本の天皇も亡くなる別の名前がつけられる。

 生前の事蹟を称える「諡号」が、住まいの呼び名などに由来する「追号」だ。
 「明治天皇」「大正天皇」「昭和天皇」はいずれも「追号」であり、生前に呼ばれた名ではない。

 在位中の天皇を「今上天皇」と呼ぶ。
 崩御して諡がつけられるまでの間は「大行天皇」という。

 若い人は、現在の天皇ことを「平成天皇」とは決して言わないということも知らないものが多いようなので、念のために書いておく。

 天皇・皇后、および皇太后(先代天皇の后)、大皇太后(先々代天皇の后)の敬称は「陛下」。それ以外の皇族への敬称は「殿下」である。

 このような慣習からすると、現在ニュースなどで平気で「愛子さま」と呼んでいるのは、正式ではない。
 本来は、称号の「敬宮殿下」が正しい呼び方だ。

 一方、秋篠宮の子供は皇太子の甥・姪なので、称号はない。
 だから「眞子内親王殿下」「佳子内親王殿下」、「悠仁親王殿下」が正式な呼び名である。

 天皇や皇族には戸籍がない。
 代わりに「皇統譜」という帳簿がある。

 そして、天皇の名に関してはこれが最も重要なことなのだが、天皇や皇族には「姓」がない。


「明治」「大正」「昭和」「平成」といった元号は、日本では大化の改新の「大化」(645~650)が最初で、数度の中断をはさみ、「大宝」(701~704)から現在まで続いている。

 現在の日本の元号は、「一世一元」といい、天皇一人の在位期間に一つと決められている。


 明治以降は、「一世一元」で天皇の命がそのまま時代とリンクして、国民の時代意識を形成することになった。
 今でも「昭和」や「平成」が時代や文化の指標として当たり前のように使われている。

 だから左翼は元号が大嫌いなのだ。元号がダメで西暦がいいという理由も全くわからないのだが!


<感想>

 明治以前は天皇の在位中も天変地異、騒乱や将軍の代替わりなど様々な要因で頻繁に改元が行われ、一つの元号は平均5年弱程度しか続かなかったという。これも明治前後の違いの一つであり、明治以降を所与と考えてしまうことの誤りともいえよう。

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by tsuruichi1024 | 2017-04-25 08:00 | 天皇論 | Comments(0)


「天皇論 平成29年」(小林よしのり著、小学館)より


 以下は、掲題書からの抜粋(その8)


  第11章 尊皇を掲げる朝敵たち


 自ら「旧宮家」の娘との結婚を拒み、古い貴族社会の因習を断ち切った今上陛下が、今さら「旧宮家」の子孫を皇室に入れるなんてことにこだわるだろうか?

 まして、その男たちを自分の孫娘と結婚させようなどとお考えになるだろうか!?

 そして、制度上、自ら発言ができない天皇陛下を代弁するかのように、陛下の信頼の特に厚いと言われる側近中の側近、羽毛田宮内庁長官(当時)と渡邉允前侍従長(当時)が揃って「女性宮家の創設を」と発言し、それを後押しするように秋篠宮殿下が「一定数の宮家は必要」と発言されている。

 天皇陛下のすぐ側で、10年以上も仕えた渡邉前侍従長がテレビに出演して「女性宮家の創設」を訴えたのだから、これはもう99.9%陛下のご意志なのだと拝察するのが国民の常識というものだ。

 昭和天皇は側室を廃止し、女官制度の大改革を行った。
 今上陛下は民間から妃を迎えた。

 いずれも「前例がない」と言われることだった。

 だが「伝統を護る」とは単なる「前例踏襲」ではない。
 伝統と因習は、似て非なるものである。

 美智子皇后陛下は結婚50年の会見で伝統の大切さを十分強調した上で、こう仰っしゃっている。

  一方で、型のみで残った伝統が社会の進展を阻んだり、伝統という名の下で古い習慣が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは、好ましく思いません。


 昭和天皇や今上陛下が因習を墨守し、皇室に今でも側室があり、結婚相手は上流貴族のみだったとしたら、それでも皇室は国民の敬愛の対象であり続けられたであろうか?

 そして、「必ず男子を産まなければならない」ことに雅子妃が苦しみ抜かれているのを目の当たりにしても、なお天皇陛下は「男系堅持」を墨守するのがいいことだと考えられるのだろうか!?


<感想>

 今こそ、皇室典範第第1条(皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。)について、天皇側近の方々のご発言の真意を忖度する必要があるのではなかろうか。

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by tsuruichi1024 | 2017-04-24 08:00 | 天皇論 | Comments(0)



「天皇論 平成29年」(小林よしのり著、小学館)より


 以下は、掲題書からの抜粋(その7)


  第8章 今上天皇の大御心・御即位二十年・慰霊


 今上天皇が即位後初めて沖縄を行幸したのは平成5年。
 歴代天皇としても初の沖縄訪問となった。

 両陛下はこの時も真っ先に南部戦跡に初めて国立沖縄戦没者苑に献花、参拝をされた。
 次に、近くの沖縄平和祈念堂で、県内各市町村の遺族の代表150名とご対面になった。


  即位後、早い機会に沖縄県を訪れたいという念願がかない、今日から4日間を沖縄で過ごすことになりました。
  先の戦争では実に多くの命が失われました。
  なかでも沖縄県が戦場となり、住民を巻き込む地上戦が行われ、20万の人々が犠牲になったことに対し、言葉に尽くせぬものを感じます。
  ここに深く哀悼の意を表したいと思います。
  戦後も沖縄の人々の歩んだ道は厳しいものがあったと察せられます。そのような中でそれぞれの痛みを持ちつつ、郷土の復興に立ち上がり、今日の沖縄を築き上げたことを、深くねぎらいたいと思います。


 約5分間、陛下は原稿なしでお言葉を述べられた。


 即位後初の沖縄ご訪問を果たした翌年、平成6年には両陛下は硫黄島、父島、母島を慰霊のためご訪問された。
 硫黄島ではこのような歌を詠まれている。

  精魂を 込め戦ひし 人未だ
  地下に眠りて 島は悲しき

 これは硫黄島守備隊指揮官栗林忠道大将が大本営に打電した決別電報の

「国のため 重き務めを 果たし得で
 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」

 ・・・の辞世の句に対する返歌となっている。

 硫黄島の遺骨収集は未だに4割程度しか終わっていない。
 そのことに思いを寄せた歌である。


 終戦50周年の「慰霊の旅」を終えられた両陛下が慰霊のための訪問を切望された場所がある。
 南洋諸島である。

 そしてようやく終戦60年に当たる平成17年、両陛下のサイパン訪問が実現した。
 天皇が慰霊だけを目的に海外をご訪問されたのはこれが初めてだった。


<感想>

 どれほどの国民が陛下の慰霊で救われたことだろう。

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by tsuruichi1024 | 2017-04-23 08:00 | 天皇論 | Comments(0)


「天皇論 平成29年」(小林よしのり著、小学館)より


 以下は、掲題書からの抜粋(その6)


  第7章 今上天皇の大御心・御即位二十年・福祉


 最近の中学歴史教科書では、「仁徳天皇陵」と書かれていなくて、「大仙古墳」と書かれている。

 (聖徳太子)もカッコ括りの記述になっていて、「厩戸皇子」と書かれている。

 さらに鎌倉幕府の成立も1192年ではなくて、1185年と記述している。
 源頼朝の支配権が西国に及んだ時を幕府の成立にするらしい。
 要するに頼朝が天皇から「征夷大将軍」に任じられた時にしたくないわけだ。

 「大仙古墳」「厩戸皇子」「1185年・鎌倉幕府」・・・つまりこれらの記述の変更は日本史から」「天皇」の権威を消そうとする企みがあるとわしは見ている!

 「天皇なき日本史」を考えている左翼学者どもが歴史の改竄を行っているのだ!


 玉音放送で昭和天皇が朗読された「終戦の詔書」にはこういう一節がある。

 「朕ハ、茲ニ国体ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ」
 ・・・わたくしは、今ここに、国体を護持し得たとともに、国民のまことの心に信頼しながら、いつも国民と共にいる。

 この一言があったからこそ、国民は敗戦を受け入れ、その傷から立ち直り、希望を持ち、復興を遂げることができた。

 今上陛下は、今日の時代に合わせつつ、歴代の天皇と国民の関係を受け継いでこられたのである。

 日本の天皇と国民の関係に階級対立史観は全く当てはまらない!

 天皇は国民の支配者ではない!

 国民は「大御宝」であり、天皇の「大御心」は健常者が普段忘れがちな障害者にも及んでいる。

 わしはそのことを大変ありがたいと感じる。


<感想>

 教科書での歴史の改竄は許し難い。
「国民と共にある皇室」には心より感謝申し上げる。

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by tsuruichi1024 | 2017-04-22 08:00 | 天皇論 | Comments(0)


「天皇論 平成29年」(小林よしのり著、小学館)より


 以下は、掲題書からの抜粋(その5)


  第6章 因習・伝統・近代主義の葛藤

 皇室の古代以来の伝統、それは祭祀を重んじることだ。
 皇室には、因習と伝統が混在している。
 皇室の祭祀は伝統して重要である。

 祭祀によって国の平安と民の安寧を祈る、無私の存在。
 それが天皇である。
 

 三島由紀夫は天皇についてこう指摘した。

 「大統領とは世襲の一点においてことなり、世俗的君主とは祭祀の一点においてことなる」

 古今東西に「国王」などの世俗的君主はあまた存在する。
 そして民を虐げ、私利私欲に走った王の話もまた枚挙にいとまがない。
 そのような歴史の中で滅びた王制も数多い。
 
 しかし日本においては、「民」が「天皇」の存在を滅ぼそうとしたことは歴史上いまだかつてない。
 それは天皇が世俗的とは君主と異なり、祭祀を司る存在だからである。

 公のため、民のために祈る存在であり、私利私欲とは全く無縁だからである。
 「公」の心が失われたところには、安定した国家は築けない。

 国の中心に、公のために祈る無私の存在「天皇」を置くというのは、国を安定させるために人類が考えうる最も賢明な策であり、他に類を見ない偉大な英知なのである。


 7世紀末の持統天皇(女帝)の時代に、伊勢神宮の式年遷宮と、天皇が一代一度行われる大嘗祭が始まった。
 今も受け継がれる最も重要な二つの祭祀の成立である。

 持統天皇は日本書紀に書かれている最後の天皇であり、これをもって古代日本は完成したといえる。


<感想>

 利己主義とは真逆の私利私欲とは全く無縁の祭祀を司る天皇の存在は日本における奇跡のようにも思われる。

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by tsuruichi1024 | 2017-04-21 08:00 | 天皇論 | Comments(0)


「天皇論 平成29年」(小林よしのり著、小学館)より


 以下は、掲題書からの抜粋(その4)


  第3章 わしが「君が代」を歌うようになったわけ


 「君が代」の原歌(もとうた)は、古代にまでさかのぼるが、初見は延喜5(905)年、醍醐天皇の勅命で撰進された『古今和歌集』である。

  わが君は 千代にましませ
  さざれ石の いはほとなりて
  苔のむすまで

 これは『古今和歌集』の賀歌(がのうた)に、「よみ人しらず」で出てくる。賀歌とは長寿を祈る歌だ。

  私の敬愛する人よ、千年も先まで、
  小さな石が巨岩となって、
  さらにその表面を苔が覆うようになるまでの
  永い歳月を、どうか息災でいてください

 ・・・という意味で「わが君」は「天皇」という意味ではない。自分にとっての敬愛すべき相手だ。

 「わが君は」が「君が代は」に、「千代にましませ」は「千代に八千代に」に変化しながら、庶民が個人個人の敬愛する人の長寿を祈って、一千年の永きにわたってこの賀歌を伝えてきたのだ。


 古代から愛誦され、千年以上庶民によって歌い継がれ、日本列島のほとんど全域に拡がっていたこの賀歌を、国歌にしたのは、もちろん明治になってからである。

 イギリス人の軍学長の「国歌を作るべきだ」という助言によって、薩摩藩の砲兵隊長・大山巌が、「その歌詞は古歌から選ぶべきだ」と、自分が愛誦していた「君が代」を選んだという。

 これに曲がつけられて、明治13年、天長節(11月3日)の宮中宴会で、明治天皇の前で正式に奏楽された。

  君が代は 千代に八千代に
  さざれ石の 巌となりて
  苔のむすまで

 このように「君が代」一つとっても、国歌なのに誰からも意味や由来を教わっていないのが、今の子供や若者ばかりか、大人までの現状である。


<感想>

 「君が代」の成り立ちや「君が代」が敬愛する人の長寿を祈った歌である、ということを学校で教える必要があると思う。


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by tsuruichi1024 | 2017-04-20 08:00 | 天皇論 | Comments(0)



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by tsuruichi1024 | 2017-04-19 08:00 | 天皇論 | Comments(0)