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「不道徳教育講座」(三島由紀夫著、角川文庫)


 以下は、掲題書からの一部抜粋。


  おわり悪ければすべて悪し

 「おわりよければすべてよし」と言われるが、この不道徳教育講座ばかりは、そういうわけにも行きません。はじめはどうやら「不道徳」の体裁がととのっていたが、おしまいには逆行して、道徳講座になってしまったキライがあります。孔子の「論語」を教えていた母の祖父の血を、私はやっぱり引いているらしい。子供のころは、
「おじいさんは、論語よみの論語しらずだね」
などと陰口を叩いていたが、私が「論語よまずの論語知り」になったかというと、そういうものでもない。


 現代日本では、前にも言ったように、いろんな珍種新種が続出して来た結果、植物的道徳では、手に負えなくなってしまったのはたしかです。そこで頭の貧しいお役人や教師たちが、いろいろと新道徳を作り出そうとしますが、そこには、全然「殺意」が、あるいは、「殺意に関する認識」がかけているから、まるきり使い物にならないのであります。そこへ行くと軍人勅諭なんかは、殺意に立脚した植物道徳の最後の光輝でしたが、もはや、そんな過去の光輝を、二度と呼びかえすことはできません。

 キリスト教があんなに力を持ったのは、あきらかに殉教者のおかげであり、それはつまり「殺される」道徳の力でした。共産主義も、「殺す」道徳、つまり革命という道徳が、その力の源泉でした。

 すると今では、大江健三郎氏のいうように、自殺道徳が唯一のものなのでしょうか? なるほど現代の犯罪は、みんな自殺に似ている。現代の殺意は。追いつめてゆくと、みんな「自分に対する殺意」に帰着します。もちろんギリシアの昔から、自殺の哲学というものはありました。

 しかし私は、臆病なせいか、こんな説には賛成することができません。
 自殺するくらいなら、人を殺すか、人に殺されたほうが、ましというものです。そのために他人がいるのです。そのために世界があるのです。
 人間のあらゆるつながりには、親子にも、兄弟にも、夫婦にも、恋人同士にも、友人同士にも、結局のところ殺意がひそんでいるので、大切なことは、この殺意をしっかり認識するということです。自殺の究極の形は、この地上に自分以外の人類が死に絶えてしまい、たった一人で、どうしようもなくて、自殺する場合でしょうが、一人でも他人がいてくれる限り、殺すことも殺されることもできるので、それがつまりこの世に生きている仕合せというものであり、生き甲斐というものであります。これが私の教育勅語です。


<感想>
 『不道徳教育講座』は、昭和三十三年(1958)「週刊明星」に連載され、翌三十四年(1959)四月、中央公論社から単行本で刊行されたもので、作者はこの時まだ三十四歳の若さだったという。自分以外の人類が死に絶えることはない世界で、殺すことも殺されることもできないとすれば、残された道は自殺(昭和四十五年(1970))しかなかったことを暗示する終章である。

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by tsuruichi1024 | 2017-05-13 08:00 | 三島由紀夫 | Comments(0)


「不道徳教育講座」(三島由紀夫著、角川文庫)


 以下は、掲題書からの一部抜粋。

  肉体のはかなさ

 今目前に並んでいるビルダー諸君も、はじめからこういう肉体では決してなく、同じような羨望からボディ・ビルをはじめて、それに成功したのです。私の場合は成功したとはいえないが、私なりに自信がついた。私は百パーセント、自分の筋肉の可能性を試してみたからである。


 私は、何が何でも、すべての人が、一流ボディ・ビルダー並みの体格をもつべきだとか、体育家のいう運動機能と柔軟性百パーセントの肉体をもつべきだとか、主張するつもりはない。自由自在にとんぼがえりの出来る肉体が、すべての男に必要なわけではない。しかし、精神的教養というものが、すべての男に必要である程度に、肉体的教養は必要であって、健康な、キリリと締まった肉体を持つことは、社会的礼儀だと考えている。世間は、精神的無教養をきわめた若者たちの暴力ばかりを心配しているが、支配層のインテリの肉体的無教養もずいぶんひどいものであります。
  
 いうまでもなく肉体ははかないもので、第一、今の世の中では、体だけでは一文にもならない。金になるのは何らかの形の知能です。おまけに知能のほうは、年をとるにつれて累積されてゆくが、体のほうは、三十代から衰退の一路を辿りはじめる。そうかといって、金にもなるしモチもいい知能だけを後生大事にしている男は、私には何だか卑しくみえる。一回きりの人生なのですから、はかないものをもう少し大事にして、磨き立てたっていいではないか。筋肉はよく目に見え、その隆々たる形はいかにも力強いが、それが人間の存在の中で一等はかないものを象徴しているというところに、私は人間の美しさを見ます。肉体に比べると、人間の精神的産物や事業や技術は、はるかに長保ちがする。しかし短い一生を、長保ちのするものだけに使う、というのは何だか卑しい感じがする。肉体を軽蔑することは、現世を軽蔑することである。


 男の肉体ははかないものである。一文にもならないし、社会的に無価値で、だれにもかえりみられず、孤独で、・・・・・・せいぜいボディ・ビルのコンテストへ出て、人に面白がられるぐらいのことしかできない。現代社会では、筋肉というものは哀れな、道化たものにすぎない。だからこそ、私は筋肉に精を出しているのであります。


<感想>
 一文にもならない、社会的に無価値で長保ちしない肉体に最期まで拘り続けた三島由紀夫。健康な、キリリと締まった肉体を持つことは、社会的礼儀だと考える三島にあやかりたい。

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by tsuruichi1024 | 2017-05-12 08:00 | 三島由紀夫 | Comments(0)


「不道徳教育講座」(三島由紀夫著、角川文庫)


 以下は、掲題書からの一部抜粋。


  告白するなかれ


 ニイチェが「ツァラトゥストラ」の中でこう言っている。

「一切合財自分のことをさらけ出す人は、他の怒りを買うものだ。さほどに裸体は慎むべきものだ!そうだ、君らが神々であってはじめて、君らは君らの衣服を恥じてよかろう!」

 これはなかなか味わうべき言葉である。われわれは神様じゃないのだから、自分の衣服を恥じる資格なんかないと、ニイチェは言っているのです。衣服とは、体面であり、体裁であり、時には虚偽であり偽善であり、社会が要求するもののすべてです。


 やたらに人に弱みをさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。それは社会的無礼であって、われわれは自分の弱さをいやがる気持から人の長所をみとめるのに、人も同じように弱いということを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。

 そればかりではありません。
 
 どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。

 というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。どんな無邪気な美しい少女でも、その中にひそんでいる人間の真実の相を見たら、愛することなんかできなくなる。仏教の修行で、人間の屍体の腐れ落ちてゆく経過をじっと眺めさせて、無情の相をさとらせるというのは、この原理に則っています。


 現実生活では、彼は彼、私は私であって、彼がどんなに巧みな告白をしても、私が彼になり切ることはできません。ですから、むやみやたらにそんな告白をする人間は、小説と人生とをごっちゃにしているのです。ニイチェの言葉を借りれば、自分を神様だと思っているのです。とすれば、彼は無礼者であるのみならず、傲慢野郎と言わねばなりません。

 ここに一つの真理があります。

 人間が真実の相において愛することができるのは、自分自身だけなのであります。印度の経典「ウパニシャード」は、かくてひたすら、「自我のみを愛しみ、崇信せよ」と教えます。・・・・・・

 思わずわれわれは哲学に深入りしました。又元気を出して、人間の社会生活に帰って来なければならない。

 ここでは人はみんな快活に、冗談を言いながら、あるいはハンマーをふりあげ、あるいはハンドルをにぎり、あるいはペンをとり、あるいはタイプを打ちつつ、働いています。

「あいつはいいやつだな」
「あの人本当に好感がもてるわ」
「何て魅力のある女だろう」
「すばらしい人物よ」
「立派な男だ」
「理想の女だよ」

 などと言いながら、そこかしこで、友情が生れ、恋愛が発生する。それで十分ではありませんか。なぜその上に告白なんかするんです。幸福でありすぎるか、不幸でありすぎるときに、ともすると告白病がわれわれをとらえます。そのときこそ辛抱が肝心です。身上相談というやつは、誰しも笑って読むのですから。


<感想>
 三島由紀夫が愛することができたのは自分自身だけだった、ということが理解できる一節。もし告白できたとしたら死を選ぶことはなかったかもしれないと思うと何とも皮肉な話である。

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by tsuruichi1024 | 2017-05-11 08:00 | 三島由紀夫 | Comments(0)


「不道徳教育講座」
(三島由紀夫著、角川文庫)

 著者は、掲題書を書く背景を次のように述べている。

『十八世紀の大小説家井原西鶴の小説に「本朝二十不幸」というものがあります。 これは中国の有名な「二十四孝」をもじったもので、よりによった親不孝者の話をならべたものです。
 大体、親孝行の話などは、読んでおもしろくなく、くすぐったくなるような、わざとらしい話が多いが、そこへ行くと、思い切った親不孝の話は読んでおもしろく、自分は相当親不孝のつもりでも、そこまで徹底できる自信はなくなり、「へえ、親不孝にも上には上があるもんだなあ」と妙に及びがたい気持ちになり、それに比べると、自分なんかは相当な親孝行だと思われてくる。そしてまず、自分を親不孝だと思うことが孝行のはじまりですから、こういう本はなかなか益があることになる。 
 私が流行の道徳教育をもじって、「不道徳教育講座」を開講するのも、西鶴のためしにならったからである。』

 極めて賢い著者が、掲題表題のようなエッセイを書くに当たって、その背景を説明せざるを得なかったものと思われる。
 また、(本人もそうであったと思われる)ゲイに関しては次のように述べている。

『ゲイ・ボーイなどは、もっともっとさかんになるべきで、むかしの平和な時代の晴信の浮世絵などを見ますと、恋をささやいている若い男女が、服装も顔かたちも、どっちが男でどっちが女かわからないほど似ていますから、そういう黄金時代の再来の兆がゲイ・ボーイであります。

 一体、女と寝ることがもっとも男らしい行為だという誤解が生まれたのは、いつからでしょうか。女と寝れば寝るほど、そして、女と感情的心理的交渉を持てば持つほど、実は男性というものは女性化するものなのであります。光源氏でも、「好色一代男」の世之介でも、日本型ドン・ファンが、何となく女性的なのは、この点から見て、リアリズムの本道を行ってるというべきです。ボクシングでも水泳でも、男性的な体力のさかりは、まだ女を知らない年頃に限られています。

 一方にゲイ・ボーイがいれば、一方に、いとも男性的なる長嶋君や裕次郎君がいます。大衆は文化に背を向けて、プロ野球に熱中します。政治家は再軍備や、警職法改正に熱中します。これでは大した文化国家とも思えませんし、一億総蹶起、軍国主義警察国家への再編成も、そんなにむつかしいことではありますまい。 果たして戦争がおわり、文弱がわが世の春をとなえたが、しかし前にも書いたように、日本がシンからの、柔弱文弱の極致をゆく文化国家になりそうもないと見きわめをつけた私は、今度は自分が時代に便乗して、ボディ・ビルなどをはじめ、今や筋骨隆々、いつ赤紙が来ても大丈夫という自信を得ました。もっともこの世になったら赤紙は来っこない、と安心してはいますがね。』

<感想> 
 三島由紀夫のエッセイ。(死に至る前の)エスプリが効いたエッセイに感動。

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by tsuruichi1024 | 2017-05-10 08:00 | 三島由紀夫 | Comments(0)